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そうは言っても信じ難く

進化の末ってことなんだろうけど,
Macrocilix maia (1)
Macrocilix maia (1) | Flickr - Photo Sharing!
なかなか俄かには信じられないね.

鳥の糞に集まるハエが模様になっているように見えるモンウスギヌカギバガ.

ランダム打鍵するサルがシェークスピアを産み出すよりはあり得ることなんだろうね.
無限の猿定理 - Wikipedia

ちょっとまえに話題になったムラサキシャチホコさんも
結果としてそうなったとはいえ,芸術作品だ.

生き残りを懸けたこの擬態の不思議を
コノハチョウについて数理モデルを立てて検証した日本人研究者がいる.

そして鱗粉による見栄えの調節は意外と短い期間で起こるという結果も.

Artificial selection for structural color on butterfly wings and comparison with natural evolution

さて,カメレオンやタコは周りの環境に合わせて体色を変えるが,
これはどこまでが学習なのだろう?
「色素胞の調節プログラム」はどの程度親から子に受け継がれるのだろう?
それとも全くのゼロから?
進化と学習の中間的なもの(あるとすれば),が気になる次第.

より身近に量子技術

青色LEDによる3人同時ノーベル物理学賞で湧く世間なわけだが
(そしてなぜNHKは「赤崎さん,天野さんなど3人」といって中村氏の名前出さないの?
というツッコミは日本のどれくらいの人がしていたのか興味深い.←そこ?),
21世紀はLEDで照らされる,という選考者の発言になるほどと思いつつ,
量子コンピュータという道具は21世紀のもう一つの巨大な光のように思う.

20年ほど前,院生時代に量子コンピュータ,量子暗号,量子テレポーテーションは
その理論が話題になっていて,自分らも仲間と共にちょっと齧ってみたことがある.
ただ,量子コンピュータにのるアルゴリズムがえらく限定されたものに思えて,
実現しても使えるのかなぁ,などといぶかっていた.
あれから20年.机上に思えていたものが,いつの間にか現実になりつつある.
GoogleやNASAが買った,というD-Waveの量子コンピュータの記事が目に留まったので.

なるほどね,まずはてっとり早くかつ汎用性の高い離散最適化問題に特化して,
量子アニーリングか.昨年度卒業したゼミ生の卒論でも量子コンピュータが登場したが,
やっぱり何か「人工的」(アルゴリズムなんだから当たり前なのだけど)
な感じがして,20年前の心境に近いものを感じていた.
が,この量子アニーリング,重ね合わせ状態を利用するという点では一緒だが,
より自然に任せた形で最適解を発見するわけで,
何だかとても「柔らかい」方法論のように思える.

しかしなぁ,ここ数年Googleって企業が怖くなってきた.
D-Waveを買い込んで自社独自で量子コンピュータを開発してるようだし,
あのBigdog*1で有名な軍事用ロボットを開発しているBoston Dynamicsを
ちょっと前に買収してしまっていたし.
Amazonに続きGoogleもドローン配達を考え出したし.
ここにあとリキッドメタルの技術がくっついてきたりしたら,
Google = Skynetなんて構図も...怖っ!

え,何のことかって?
きっと若い人たちはもう知らないかもしれない↓

ターミネーター2 特別編 [Blu-ray]

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*1:最近は物も投げられるようになったらしい.
Dynamic Robot Manipulation - YouTube

時至るまで

自宅裏庭のライラックの木の葉っぱが穴だらけになったのはこの8月.
その犯人映像がこれ↓
f:id:okiraku894:20140813093054j:plain:w500
画像検索してみるとハバチ(コクロハバチ?)の幼虫とのことらしい.
何でもハバチの幼虫は狭食性で,決まった種類の葉っぱしか食べないとのこと.
調べてみると,ハバチの種類と食べる植物の対応表なんてものまである.
(参照:自然散策便りのなかのハバチ,ああ,でも幼虫とか無理な人は閲覧注意ね.)
9月になって慌てて駆除したものの,
すっかり葉っぱが食べつくされ緑色は無くなり,枯れ木のようになってしまった.
ところが,面白いのはこれから.

すっかり幼虫が見られなくなって数日,
ふと見ると新芽が一斉にあちこちから吹き出しはじめた,まるで春先のように.
f:id:okiraku894:20140918092600j:plain:w500
おお,何ていう生命力!と始めは唯々感心していたが,
計ったように新芽を出す様子を見て,あれ?と思い返した.
これはライラックの戦略ではなかったのか?
とても木一本では賄えないような数の幼虫が取りつき,
ライラックは「成す術なく食われる一方だった」訳ではなかったんじゃないか,と.
食べるだけ食べさせ食糧不足に導き,結果として(あのまま駆除しなかったとしても)
幼虫たちは蛹にまで成れずに消えたのではなかろうか.
実際,終盤の頃には体が黄色の幼虫が増え,
明らかに餌不足になっていたことが見受けられた.
そして確かにその間,ライラックは一切新芽を出さなかった.
つまり彼らが居なくなるのをじっと待っていたのだ.
本当に「死んだふり」して嵐が過ぎ去るのを待っていたわけだ.

う~ん,生命ってなんと 強か (したた)なのか!
植物なのに一体どうやってそんなことが分かるのだろう?
などと,畏敬の念を感じると同時に,
子どもの頃に出会ったある詩の一篇を思い出した.

(なれ) 嬰児(おさなご)の如く 力なきとき
内重(うちのえ)の奥 深く留まれ
時至るまで
タゴール「ギーターンジャリ」詩篇 第136より

やってきたこと,あるいはそれまでの人生そのものが
全て否定されたような気になる出来事が起こったときなど,
これまでにも何度か生命の危機を感じるほどに打ちひしがれる度,
呪文のように思い出してきた一篇だ.
ひどく打ちひしがれているときというのは,実は次への準備期間なのだと.

因みに,いわゆる命令中枢のようなものを持たない植物が,
今回のライラックのような戦略を引き起こす背景には,
ルパート・シェルドレイクが提唱する「形態形成場」が働いているのかもしれない,
などと夢想したりもしている.
本当に生命の進化は自然淘汰だけで進んだのだろうか?
自然界いたるところにみられる収斂進化 - Wikipedia
ハワイのコオロギに起こった急速な収斂進化などを見ていると
自然淘汰以上の「何か」を感じたくなってくる.
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20140609001

タゴール詩集―ギーターンジャリ (岩波文庫)

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  • 作者:タゴール
  • 発売日: 1977/01/17
  • メディア: 文庫

ほれ,やっぱり写真は記憶を薄くする


「写真撮影はお断り」博物館で写真を撮ることは記憶には悪影響?
ScienceNewsline Psychologyより.

http://jp.sciencenewsline.com/articles/2013120908550007.html



以前,パイディアへの投稿読み物でも書いたけど,
初年次導入教育の可能性 ― ある数学教員の夢想 ―
ゼミや講義の板書をケータイカメラで保存したって,決して頭には残らないんだよ.
それをもう一度その後すぐに自分で再現しなおす為の記録として撮るならいいけど,
撮ったまま放っておいて,次のゼミや講義まで全く見直さないってのなら,
意味が無いんだよな.
後から見たって,その当時の議論は頭からさっぱり消え去ってしまうことが多いんだ.


とか言いながら,自分も学生のゼミの板書はいつも撮ってるんで,
説得力無いか...

...情報はどれだけ集めたところで「知」には成り得ない.
情報は「知」に至るためのきっかけに過ぎない.複数
ソースから得た情報を比較し取捨選択し,分析と抽出を
行った末やっと物事の根底にあるもの,本質に迫ってい
く道がひらける.
   しかし大学入試まで,常にセレクションに掛けられる
学習環境を生きてきた学生にとって,これらの反応はごく
自然なものだ.手っ取り早く一問一答で学習事項を憶えて
いけば,それなりの点数が付いてやり過ごしていける.
如何に効率良く記憶し,吐き出すかに自分の未来がかかっ
ている.ハイレベルの学生が集まってくるはずのある旧帝大
の先生が,「この頃のうちの学生は余り他の大学と変わら
なくなってきた.ただ記憶容量が大きくて脳内検索が速い
だけだ.」と嘆いておられたそうだ.また時間短縮の為なの
か,学生が板書をケータイカメラで写すことがある.これは
私が拘っているだけなのかもしれないのだが,初めてこの
光景に出会ったときはギョッとし,無性に腹が立ったのを
覚えている.もちろん,学生には何ら悪意はない.むしろ
効率良く,詳細に記録を保存しているつもりなのだろう.
しかし当人と長い時間議論し,ちょっとずつ黒板を数式で
埋めていった知的活動の証が,あのカメラのシャッター音で
あっという間に「情報」に貶められてしまったようで,何とも
もどかしい.もしかすると,それまで議論していた学生は,
そこで生み出される「知」にではなく,そこに書かれた
「情報」に反応していただけなのかもしれない.だとしたら
意気消沈である...
初年次導入教育の可能性 ― ある数学教員の夢想 ―
パイディアvol.11,2012/03/31 (2012) より

世界は実在なのか関係なのか

表題は,ケン・ウィルバーが編集したニューサイエンス論考集
「空像としての世界」に当時巻かれていた帯の文言.


フラフラしていた大学生時代にニューサイエンスにはまった.
きっかけはF.D.ピートの「シンクロニシティ―」.
現時点でのあらゆる初期値が厳密に分かれば,将来は確実に予想できる,
というニュートン運動方程式に始まる決定論的世界観に,
何とも言えない閉塞感と絶望感に打ちのめされていたときに,
その本に出会った.
その当時大流行だった,量子論を組み込んだ新しい世界観,
「人間の自由意思はそれでも存在しうるのだ」
そう高らかに謳い上げる思想に,心が大いに躍った.


あれから20年.再び大きな閉塞感に苛まれる日々となった.
この寂寥感と喪失感は何だろうか.
入学したころの学生たちは目新しさもあるからだろうが,
「学ぶ」ことに少なからず心が開かれている.
しかし学年が進むにつれ,学生らは「学び」に無関心になる.
下手をすれば「大学での学び」を敵視するようになる.
そういった輩は教育現場に行って
「大学での勉強は糞の役にも立たなかった」と嘯くのだろう.


ちょっと前の自分なら,「何をコノ!」と怒るのだろうが,
学生がそうなってしまうのも已む無し,とこの頃は思えてならない.
むしろ,やっと受験という足枷から解放され,
学びに自由が戻るはずの大学において,
学ぶことの本来的な楽しさを再認識させられずに卒業させて,
申し訳なかった,と思う.
実際,学生の「本当の意味での学び」を興し自律性を育てる,
そういった明確なベクトルを持った講義があまりに少ない,と思う.
つまらないルールだとか目先の成績を盾にとることで,
どれだけ学びの本質から彼らを遠ざけてしまっていることか,と思う.
正直なところ,学生一人一人の学びの独自性を保障しない,
「一斉授業」という形式自体に,もはや限界を感じてならない.


そんな経緯もあって,一斉授業という形が日本に導入される明治以前の
江戸時代の学びについての本に出会った.「学び」の復権―模倣と習熟 だ.
貝原益軒の思想を出発点に,現行の教育制度を見直そうという話なんだが,
まだ読んでる途中なので内容には踏み込まない.
ただ,ちょっと面白いな,と思ったのが益軒が朱子学における「理」を
どうしても認めなかった,というくだりだ.
朱子学は,あらゆるものは「気」(「気功」の気も同じ思想)を持ち,
気は「理」と呼ばれる秩序法則に従っている,といった思想哲学らしい.
この辺から自分の曲解が入るので気を付けてほしいのだが,
朱子学において「気」は形而下のもので,「理」は形而上のもの.
それは「実存」と「関係」と読み替えられるか,と思っている.
そして益軒は「関係」が実体を持つことを受け入れられなかった,
ということなのかな,と.


で,初めの「空像としての世界」の論考集では,
「実在」と「関係」にまつわる様々な考察が行われていたと記憶している.
つまり,世界の本質は「実在」なのか,
それともそれらの間の「関係」なのか,と.
「関係」が実体を持つことを受け入れられない論者がいれば,
ハイゼンベルグが言ったように,宇宙の究極の存在は一握りの対称性に集約される,
といった,「関係」こそが実体だと論じたものがあった.


このところ,和声理論をトポスの言葉で分析し再構成する数理音楽の論文を
色々と読み漁っているところなのだが,それに並行して圏論の再勉強をしている.
そして圏論は,まさにこの「実在」から「関係」へ視点を移してみよう,
という試みにほかならない.
つまり「実在」としての「点」が実体として先にあるのでなく,
点と点を結ぶ「射」という「関係」こそが実体だとして,数学を見直すという方法論だ.
(いや,これは数学理論なのだから,もちろんそんな思考のバイアスは元から無いのだけど)


さて.ここ1年ほどつきまとっている寂寥感と喪失感も,
「実在」から「関係」へパラダイムシフトすることで,
あるいは違って見えるようになるんだろうか.


空像としての世界―ホログラフィをパラダイムとして

空像としての世界―ホログラフィをパラダイムとして

シンクロニシティ

シンクロニシティ

「学び」の復権――模倣と習熟 (岩波現代文庫)

「学び」の復権――模倣と習熟 (岩波現代文庫)