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残念な国(8-a)―「良い子」の国,ニッポン!

あれこれ きょういく ものもう

ここ数年,ずっと懸念している政府与党による改憲への水面下の動き.
きっと気付いたら国民全員が賛同しているという流れにされてしまうのだろう.
皇国史観に基づく日本会議という実質的にこの国を動かしている大組織は,
丁度戦前でいうところの大政翼賛会さながらの働きをするのだろう.
現に手始めとして国民の目の前で憲法解釈の変更を一内閣内で行ってしまったのは記憶に新しい.
安保法案の中身がどうのこうの,ということではない.
重要なのは,権力者(政府)が権威者(国民)の眼前で憲法による権力制限の枠組みを巧みに逸脱してみせた,
その前例を作ったということ,その一点だ.
この国は立憲主義ではないことを明確な形で内外に発信した,ということだ.
(もちろん,自国を自力で守る仕組みがない稀有な国だという見られ方をされているなら,
 海外からは今回の一件は特別なことには見えないのかもしれないが.)

昨年の事件以来,改憲への国民の注目度は高くなっただろう.
(というのも,元来ノンポリな自分ですら危惧するようになったのだから.)
そして,自民党内で議論されてきた自民党憲法改正案にも当然注目が行くこととなる.
読んだことのない人は是非,前文だけでも見て欲しい.
自民党憲法改正案
# 正確には「日本会議草案」と呼ぶのが相応しいだろう.

自分は一読したとき,息苦しさと腹立たしさを感じざるを得なかった.
そしてどう言ったらいいのだろう,丁度夏休みの宿題で読書感想文を書かねばならず,
しかし書けないものだから,他人がかつて書いて優秀賞をもらったその作品の読書感想文を手本に,
それを参考にしたとを分からないようにするために省略したり,
オリジナリティーを無理に出そうとしたり,という稚拙さを感じる.
何より憲法とは人類の英知の歴史を刻み込んだものである,という深い認識や,
人類共通の普遍的な目標への敬意や畏れも「省略」によって削がれてしまった.
国としてではなく,人類として最も大切にすべき視点をこの改憲案は明らかに欠いている.
いや,むしろ皇国史観に基づくなら自然とこういう書きぶりになるのだろう.

さて,この草案によればまず,日本国民たるものは「良い子」でなくてはならないらしい.

日本国民は,国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り,基本的人権を尊重するとともに,
和を尊び,家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する.

我々は,自由と規律を重んじ,美しい国土と自然環境を守りつつ,
教育や科学技術を振興し,活力ある経済活動を通じて国を成長させる.

(自民党憲法改正案・前文より)

つまり,新しい憲法はクラス児童が従うべき学級目標なのだね.
そしてこの目標に従わない児童は,この目標の名のもとに叱られるわけだ.
そしてこのような国民への罰則規定を無数に生み出す書きぶりは,草案の至る所に見られる.
実際,草案第102条1項には「憲法尊重擁護義務」が掲げられた.あ~ぁ.

第102条(憲法尊重擁護義務)
1 全て国民は,この憲法を尊重しなければならない.
2 国会議員,国務大臣,裁判官その他の公務員は,この憲法を擁護する義務を負う.
(自民党憲法改正案より)

因みに現行憲法ではどうか.対応する箇所は第99条だ.

第99条
天皇又は摂政及び国務大臣,国会議員,裁判官その他の公務員は,
この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ.
(日本国憲法)

現行憲法には国民への遵守義務が書かれていないのに対し,
自民党草案では権力機関よりも先の項目として国民の憲法順守義務が書かれている.
この時点で,自民党,いや日本会議が作っているモノは憲法ではないことが分かる.
先に述べたように,立憲主義に基づく憲法とは国家権力を制限するものなのだから,
自民党草案のベクトルは真逆だ.もう一度書こう.
現行憲法は国民が遵守するものとしてあるのではなく,権力者たる国が遵守するものだ.
更には権力者が侵してはならない我々主権者の権利を明確に規定するものだ.
これこそが憲法というものがあらゆる法律の前に存在する理由だったはずだ.
権力者である国がその力を制限する憲法に従う,という約束があって初めて,
主権者である我々国民は国が定める法律に従うことにしているのだから.

おやおや,更によく見ると待てよ.現行憲法には入っていた「天皇又は摂政」が
草案では省かれている.この文言削除も,その他いたるところで見られる削除と同じく,
軍の暴走が引き起こしてしまった,大東亜戦争という過ちを二度と起こさぬよう,
二重に三重に言葉を重ねて,一部権力機関による暴走を未然に防ごうとしてきた
現行憲法の工夫と努力を骨抜きにしてしまうやり口なのだ.
(一方で草案の「国民」の義務に相当する部分では逆に二重三重に言葉が重ねられている.)
そうして更には草案第一章第一条に元首という文言が組み込まれた.

第1条(天皇)
天皇は,日本国の元首であり,日本国及び日本国民統合の象徴であって,
その地位は,主権の存する日本国民の総意に基づく.
(自民党憲法改正案より)

引用を始めるとキリがないし,長くなる.
締め括りに草案と現行憲法の前文を並べて挙げておこう.
草案の前文は簡潔になったが,それは戦犯としての反省を早く忘れたい気持ちと,
(どれだけ時代が進んだとしても,先の大戦による荒廃と簡単にかわせるような軽いものだったろうか?)
したがって歴史的過ちから学ぶという重要なチャンネルを閉ざそうという明確な「意志」が,
逆に感じられてならない.
これはとても恐ろしいことだと思う.

自民党憲法草案 前文

日本国は,長い歴史と固有の文化を持ち,国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって,
国民主権の下,立法,行政及び司法の三権分立に基づいて統治される.
我が国は,先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し,
今や国際社会において重要な地位を占めており,
平和主義の下,諸外国との友好関係を増進し,世界の平和と繁栄に貢献する.
日本国民は,国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り,基本的人権を尊重するとともに,
和を尊び,家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する.
我々は,自由と規律を重んじ,美しい国土と自然環境を守りつつ,
教育や科学技術を振興し,活力ある経済活動を通じて国を成長させる.
日本国民は,良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため,ここに,この憲法を制定する.

まず「国」のことが書かれ,次に「天皇」が書かれ,そしてやっと「国民」の順だ.
しかもできるだけ目立たぬよう,「国民主権」の四字熟語に収められている.
代わりに増えた文言が日本「国」の固有性であり,位置付けであり,(対国民ではない)対外的役割である.
その記述が終わってから,それを踏まえた上での「国民」が果たす「べき」文言が続く.

どうだろう.さぁ,ニッポンのみんな,良い子になろう!ってことらしい.
深い人間的あるいは歴史的苦悩や,先人たちがそれこそ血と汗と涙の末に勝ち取ってきた,
おそらく全人類に普遍的な人間個人としての権利概念への畏敬の念が微塵も感じられない.
「友達と仲良くしましょう」「美しい国にしましょう」「みんな元気に頑張りましょう」
要するに先生がクラス運営を円滑に進めるために,天下りにこんな学級目標を掲げた,ということだ.
先生に従うことが大事だと信じてやまない児童たちには,さぞ分かりやすい目標だろう.
あるいは(政治家も含めた)一億総学校化社会に慣れ親しんできた現代日本人にとって,
端的に目標だけ掲げられた方が分かりやすく納得しやすい,ということか.
そしてこの「空気」から外れた者は先生に叱られたり諭されたりするわけだ.
(戦時中でいうところの「非国民」というやつだね.)

何と安上がりな学級目標,そして何という息苦しいクラス.
つくづく残念な国に成り下がってしまったものだ.


さて,ではいよいよ現行の憲法前文を掲げよう.
そこにはまず「国民」のことが書かれ,主権が国民にあることを丁寧に,
かつその権利が再び国に奪われることの無きよう注意深く重ねて記述し,
その考え方の根拠を歴史認識と人類が普遍的に目指すべきであろう原理原則に求めている.
この憲法は人類が共通に抱くであろう素朴な願いから出発している.
だからこそ心動かされ,この憲法を誰もが納得し,護ろうとし,
その願いに向けての努力を人々が自発的に起こそうとするのではなかろうか.
こういった発想ができるのも,「国」より先にまず「個人」が有るのだという
現行憲法を貫く哲学があるからなのだ.

「戦勝国による押し付け憲法だ」などという幼稚な反発のもと,
軽々しく「日本国」の固有性を謳う学級目標憲法とは次元が違うのだ.

日本国憲法 前文

日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し,
われらとわれらの子孫のために,諸国民との協和による成果と,
わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し,
政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し,
ここに主権が国民に存することを宣言し,この憲法を確定する.
そもそも国政は,国民の厳粛な信託によるものであつて,その権威は国民に由来し,
その権力は国民の代表者がこれを行使し,その福利は国民がこれを享受する.
これは人類普遍の原理であり,この憲法は,かかる原理に基くものである.
われらは,これに反する一切の憲法,法令及び詔勅を排除する.
日本国民は,恒久の平和を念願し,
人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて,
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して,
われらの安全と生存を保持しようと決意した.
われらは,平和を維持し,専制と隷従,圧迫と偏狭を
地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において,名誉ある地位を占めたいと思ふ.
われらは,全世界の国民が,ひとしく恐怖と欠乏から免かれ,
平和のうちに生存する権利を有することを確認する.
われらは,いづれの国家も,自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて,
政治道徳の法則は,普遍的なものであり,
この法則に従ふことは,自国の主権を維持し,
他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる.
日本国民は,国家の名誉にかけ,
全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ.

 山は樹を以て茂り
 国は人を以て盛なり
       吉田 松陰

個人の存在根拠を国が認めないのなら,やがてその国は亡ぶと思う.

まいばん星たちが
夜空でささやいていることを
だれもが忘れないでいて
こどもが見る夢は
いつだって楽しくて
道ばたのたんぽぽのように
いっしょうけんめい生きることに
だれもがよろこびを感じられる

そんな国であって欲しい

私信 2003/04/02 より

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残念な国(7)―そして過去への扉も閉ざされたなら

おしごと がくせい きょういく ものもう

まず初めに,講義「統計とコンピュータ」で本年度の3年生102人から得たあるデータを紹介しよう.
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これはひと月平均本を何冊読むか?に対する結果だ.
(Google formによる調査はこんなふうにその場でグラフにまでしてくれて便利だ.)
因みに中央値は0.1冊とも教えてくれた.つまり,ほとんどが「全く読まない」ということだ.

自分が属しているのは数学教育の講座で,だから自称「理系」の学生らが集まる学科である.
赴任した頃の十数年前でも,教育学部であるにもかかわらず「本を読まない」,
正確には「本が読めない」学生が少なからずいたことは知っていた.
そんな彼らが一体どんな顔をして子どもたちに読書を勧め,習慣化させるのか
当時から不思議でならなかったことを思い出した.
(そういえばその当時,「国語のできない文系」などといって学生を揶揄していたものだ.)
そして現在,改めて調査をしてみると予想はしていたものの,愕然とする結果となった.

今日は講座で行っている教員採用試験の為の面接練習会に面接官役として出たわけだが,
どうやら戦後の昭和の言葉すら通じなくなってきている事態にあることに改めて直面した次第.
本日通じなかったのは「困ったときはお互い様」そして「卆なく答える」.
いずれも良い意味なのか悪い意味なのか,といったニュアンスそのものが分からなかったらしい.
(そして実は前者の言い回しは最近30代の同僚にも使ったことを思い出し,
 ひょっとするとニュアンスを間違って取られているかもしれない,
 などと面接練習中に密かにゾッとしていた.いや,杞憂に過ぎないだろうが.)
もちろん,言葉は生き物であるし,時代と共に変わってしまう宿命にあることは承知しているつもりだ.
自分だって自分よりずっと上の年代からすればヘンテコな日本語を使っているのだろう.

例えば「全然」という副詞.
「全然大丈夫」なる表現は二度折れ曲がって間違いでもないともいえる.
かつてこの熟語が中国から輸入されたとき,それは「全く」の意味だったそうだ.確かに字義通り.
漱石の時代でも「君の意見に全然同意するよ」などと言っていた.
それが戦後教育の中で「全然」は否定語の前につけるが正しい,としてきたのだそうだ.
そしていつの時代も古いモノを壊して遊ぶのが若い世代の特性であって,
言葉もわざと前時代では間違ったとされる使い方を敢えてする.
「全然だめだ」という言い方に慣れた人々の中,
「全然いける」などと言ってその若干の違和感を楽しむ.
そうやって遊んでいるうちに「全然」が「とても」の意味に解釈され始め,
「全然楽しい」などと使うようになる.
こういった変遷は言葉遊びから来るもので,ライブ感があって楽しい.
しかし一方で,「~することができる」の多用には,
現代日本のひずみ,あるいは病いが垣間見える,というのが持論だ.
tokidoki.hatenablog.jp
(その他気になっている言葉は多数ある.
 政治家が使う「粛々と」「説明する」「しっかりと」,
 また一般人がしきりにつかう「させていただく」,「意識高い系」の自虐的使用,
 そしてすっかり浸透した「癒し」や「感動した」の安易な使用.
 いつかこの辺りのことも書きたいけれど,まだ醸造中だ.)

話が逸れた.「本が読めない」教育学部の学生のことだった.
この事態は世間が言う「若者が本を読まない」を問題と捉えることとは
少々質的に違うように感じる.というのもそこに「教育学部の」がつくからだ.
教育現場はやはり"生き物"であるし,
目まぐるしく変わる事態への俊敏な対応が常に迫られる.
けれど一方では,人類が(とまでは行かずとも先人が)歩いてきた道を
生き生きと伝える場でなくてはなるまい.
つまり教育現場は子どもの目を過去と未来,両方に拓かせるはずの場所だ.
教育現場における不易流行,あるいはもっとシンプルに温故知新だ.
(もちろん教育現場だけがその責務を負う,という訳ではないものの,
 地域共同体がすっかり壊れてしまった現代―だから「お互い様」が分からなかったのか―
 やはり最後の砦としての役割は大きい.)
その一方の扉であるはずの書物をやがて現場教員となる学生が「読めない」となると,
教員自身,先人の叡智を持たぬまま,まる裸で現代と闘うに等しく,
同時に眼前の子どもたちにも根っこの無い知識を切り売りして過ごすことになる.
こうして歴史を持たない子どもたちが拡大再生産されていくわけだ.
そしてこの事実は日本国民の,
真の意味での個人の確立と市民への成長を大いに妨げてきたのだと思う.
(この点については,「個人」の概念そのものを条文から消し去ろうとしている,
 "腹立たしい"自民党憲法草案へ話はつながるのだけど,これもまたいずれ.)

さて.ひたすら場の空気だけを読んでそれこそ「卆なく」その日暮らしをする世代.
昭和言葉(もう大和言葉まで遡ることもできない)ですら通じにくくなっているのは,
地域共同体が壊れたことと同時に,やはり少し前の本を読まないからだと単純に思う.
例えばではあるが,2chをはじめとするネットスラングの世界は,
始めた側にとってはフィネガンズ・ウェイクばりの言葉遊びだったのだろうけど,
多感な時期にずっとそういった「崩した/壊した」言葉に囲まれて育った世代が増えるとき,
しかもその文化の変遷は数年単位で起こる故,
彼らの智慧の基盤はとても脆弱なものとならざるを得ない.

時代とはいえ,それにしてもね.
「最終的に立ち戻る場所がYahoo!の知恵袋のみ」という教員には
やっぱり教わりたくないなぁ...

祖国とは国語(新潮文庫)

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因みに↑の著者は数学者.
藤原先生のデビュー作「若き数学者のアメリカ」を読んだ,ネット社会未明の時代が懐かしい.
若き数学者のアメリカ (1977年)

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Never Let Me Go - 人間の非人間性

あれこれ ものもう

そこから取るものを取って仕事を終えた「解体者」たちは,
言葉もなくさっさと立ち去る.
内臓をすべて取りつくされ,開腹されたまま手術台の上に放置された,
かつてルースと呼ばれた体.
その体を覆う真っ白な滅菌ドレープからは二筋の赤い雫が音もなく床へと流れ落ちる.

心停止を告げるピーという無機質な音以外,何もない.

前期入試採点が終わり,出版社への原稿も書き終えて,
ちょっと前に買っておいた映画"Never Let Me Go"を観た.
もちろん今シーズンのドラマの影響だ.

その映画中の何とも切なくかつ後味の悪く,そして鮮烈な印象を残したシーンを
自分なりに文章にしてみたのが冒頭のものだ.

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作者 Kazuo Ishiguro の意図は敢えて問わないで自由に考えてみる.

二筋の赤い雫は涙,全身で,全身が泣いているのだ.
そして,無機質な機械音は終了を意味すると同時に,
もっと生きていたかった,という悲痛な訴えにも聞こえる.

一体どんな理屈で人間はクローンから臓器を摘出できるのだろう?
生物学的には人間と全く同じであるクローンの命を二の次にできるのはなぜ?
映画中ではクローンの彼ら目線で進むから,
彼らをモノとして扱う外の人間,つまり普通の人間たちの方こそ非人間的に見える.

そもそも我々人類は元来他の生物を都合の良いように利用して生き延びてきた.
食べるための家畜・養殖や医学薬学の為の動物実験.
これらはしかしかろうじて我々と同一種族でない,
いわゆる「しゃべらない」生き物だからこそ彼らを利用することに抵抗が少ないのだろう.
けれどもこれが生物学的には人間であるクローンとなると,
本当は悩むはずのことだ.それを映画ではクリアしてしまっている.
「クローンだから,コピーだから」か.

こうした「造られた者」たちの哀しみは度々作品になってきた.
「ブレードランナー」はその代表作だろう.

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しかし振り返ると我々人類は,人間同士であっても同じような「利用」を行ってきた.
異民族間や異人種間の奴隷制度はまさに人間をモノとして利用する行為だった.
そしてこれは世界中のあらゆる場所,時代で行われてきた.
そう考えると,案外人間が人間らしくある状態というのは難しいことなのかもしれない.
人はいとも簡単に非人間的に成れる.
それはあの「夜と霧」にある,おぞましいアウシュビッツの記述を読めばよく分かろう.

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

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生き残るためには,生き延びるためには,人は,あなたも私も,
簡単に人間を止め得る,そんな生き物なのだということを忘れちゃいけない.

それにしてもなぁ.クローン制度を受け入れたあの社会は,
代わりに「人間性」を放棄したということなんだろうか.
「いや,それでもまだ放棄していない」
寄宿学校ヘールシャムでの美術偏重の指導は,
あるいはそういった社会制度への細やかな抵抗だったのかもしれない.
地獄絵さながらのアウシュビッツで,なお人間的であろうとした
数少ない名も無き人たちのように.

人が強制収容所の人間から一切をとり得るかもしれない,しかしたった一つのもの,
すなわち与えられた事態にある態度をとる人間の最後の自由,
を奪い去ることはできない.
夜と霧/V.E.フランクル

Never Let Me Go

Never Let Me Go

「することができる(be able to)」病

あれこれ がくせい ものもう

卒論発表会の為の練習会,お疲れ様です(というローカルな話題).
で,その練習会で今年もやはりな現象.

数年前に気付き始めたら,あらゆる所で気になって仕方ないこと.
日本全国老若男女の「することができる」病.
この形式ばった言い回しは英語でいうところのbe able toだろうか.
特に「可能」が重なって使われる場面で,この「することができる」を連チャンで言われると,
「日本に来て何年目ですか?」と言いたくもなる.
標準語を喋っているであろうNHKアナウンサーですら「することができる」の山だ.
例えばこんな感じ.

「この装置にはカメラを搭載することができますので,
位置を確認することができ,安全に操作することができます.」

日本語が少し分かる外国人にも通用しやすいように
意図的にこういった言い回しを使用する方針にしたのかもしれない,
などと一時期勘ぐってあれこれネットで調べてみたものの,
それらしいソースは現れない.
子どもの頃の報道はそんな喋り方じゃなかったよな,
もっと滑らかな日本語をアナウンサーは喋っていたよな,
そうだったよね?と両親に訴えても「さぁ?」といった反応.
あれあれ.
自分より古い人たち,違和感持ってないってこと?
確かにテレビでインタビューされている市井のご老人も「することができる」を多用している.
ネットで誰か彼かは騒いでるだろうと折に触れ検索するものの,見当たらない*1
そしてまわりの誰もオカシイと言わない.
えっと...自分だけ?

こうなってくると自分の方がオカシイのかもしれないと自信が無くなってくる.
いや,もしかすると「1Q84」のように,
いつの間にか並行世界に入り込んでしまったのかもしれない.
実は満月の陰にうっすらと苔むしたのもう一つの月があるんじゃないか,
と本当に探してしまった.

1Q84 1-3巻セット

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ちょっと振り返ってみると,まだ昭和だったころ「日本語の乱れ」というお題目で
「ら抜き言葉」が取り沙汰された時代があった.
「見れる」「食べれる」変だろう?いや,変じゃない.
そういった古い世代と若い世代の小さな対立もあって,
そして「れる・られる」が可能のほかに受け身,尊敬,自発もあるためややこしく,
その上そんな風に叩かれるのなら可能の意味では「れる・られる」は使わず,
「することができる」にしてしまえ,となったのかもしれない.
確かに何でもかんでも「することができる」で可能が表せる,おっと,表される.
そして日本語に不慣れな人たち(日本人を含め)に通じやすい表現となったのかもしれない.

学生にチラッと聞いてみたら,
「することができる」の方が丁寧に感じる,とのこと.
なるほど,普段使いでない格式ばった言い方だから距離があって,
だから「丁寧」と感じるのだろうか.

でもなぁ.
「理解することができないので話すことができません.」
とか言われると,この日本人,やはり日本に来て日が浅いんだろうなぁ,と思ってしまう.
「理解できませんので話せません.」
じゃだめなんだろうか.

そういえば子どもの頃,強烈に違和感を覚えたナレーションがテレビアニメにあった.
次回予告の最後にいつもこのフレーズが流れ,次週への期待感を煽る.
明らかに意図して強調されたゴツゴツした言い回しにしたのだろう,と子供心に感じたものだ.
それがこれ↓

「君は、
生き延びる事が出来るか」

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ああ,果たして僕は,この先こんな国で生き延びる事が出来るだろうか
いや,本当に何らかの並行世界に紛れ込んでいて,それに気付いてしまったのだとしたら,
僕は闇の組織にこの文章公開後に消されているかもうわぁおまいら,何をすくぁwせdrftgyふじこlp

*1:同様な違和感を訴える人がかろうじて居ました.こちらでは,中学英語の直訳の習慣が残ったのだろう,と分析しています.しかしそんなことがNHKにまで影響するだろうか. torokko.sblo.jp

残念な国(6)―縮む社会

あれこれ ものもう

六百兆でなくて,八百兆と言えばいいのに.
と,かつて多くの皆がつっこんだことだろうけど,
あまりに庶民の世相感覚から外れすぎていて吹き出さずにはいられなかった.
thepage.jp
まぁ,そうは言っても何らかの基準見直しで見かけ上達成できる
数値目標なのかもしれない.(だから八百長なのだが.)

そういえば小学生だった頃,小学生ながらに不思議に思っていたことがある.
「今年は経済が何%成長した」と報道し,伸び続けることを人々は喜んでいたのだけど,
そもそも物事は有限なのだから,そんなん,ずっと伸び続けられるわけないのに,
なぜ大人はそれが分からないのだろうか,伸びなくなったときどうするのか,と.
そして実際,確かに伸ばせなくなった現代に至る.

しかし,一億総活躍社会にせよ希望出世率1.8とか介護離職ゼロとか
どれ一つ取っても本気でやるなら数十年スパンで取りかかるべきもの,
政権とは独立な仕組みの上で哲学を持って進められないものだろうかね.
gendai.ismedia.jp

そして自虐的な国民性も手伝っているのか,あらためて「うわぁ」となるデータが.
www.newsweekjapan.jp

「てやんでえ、こちとら江戸っ子だい!宵越しの銭は持たねえや」と
やせ我慢が言えた時代がかつてこの国にあったらしいが,
(それは互いが互いを良くも悪くも関わりあっていた時代だったから)
今はもう人々はすっかり委縮して,一旦やらかして外れると
まず社会復帰できないと多くが信じている.だからこの結果は自然だろう.
徹底した個人主義とそれに伴う責任の外在化,新自由主義,自己責任論.
この国をこの国たらしめていた,地域コミュニティーがすっかり崩壊してしまった.
自分が子どもの頃にはまだ残っていた,寛容でしなやかだった社会は
すっかり失われてしまったんだと,つくづく感じる.
しかしそれも,パイが小さくなっていく現代,致し方ないのか.
www.newsweekjapan.jp

なんだか,今回は記事紹介の羅列.まとめようとも思ってないけど.

シロウト目に見ても時代錯誤なんだよな,政策の何もかもが.
そしてこれっぽっちも「人」を大切にしちゃぁいねぇ.
新自由主義,ここに極まれり,か.

国民なき経済成長 脱・アホノミクスのすすめ (角川新書)

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