例年通り、今シーズンもどっぷりと卒論添削に浸かっている。
おそらく殆どの学生が数理論理的な文章を
自力で初めて書く機会なんだろうが、
毎年頭を痛め、同時に罪深さを感じる期間でもある。
その罪深さとは。
子供の頃から数学で良い点数を取り、
「センター試験」に象徴される受験数学を
「上手く」すり抜けて入学し、
その後もレポートや定期試験で
それなりな点数を取ってしまって
我々の監視の目(しかし粗い)を潜り抜けてきたものの、
結局数理的な心が育っていない学生たちを
卒業間際のこの時期になって発見しながら
「数学」の教員として現場に送り届けてしまうこと。
少なくとも4年間は我々の手元にいて
十分に数理的な心を育てる機会があったはずなのに、
特にゼミ生は1年半じっくりと育てられたはずなのに、
提出される卒論下書きを見て
毎年ゾッとする瞬間がある。
典型的なのが「仮定」と「結論」、
「定義」と「主張」が全く反対になっているもの。
何の臆面もなくキレイに真反対だったりする。
「何を前提として、何を主張しているのか」
数理的精神活動の根源としている我々にとって
それは当たり前すぎることだから、
こういった下書きには愕然とする。
奈落の底に突き落とされる。
その底でいくら大声で叫んでみても
何か異星の人々に話しているようで、
何とももどかしい。
6+6+4=16年もあって、
結局何も伝えられなかったんじゃないか、
と深い敗北感に浸る。
数年添削していて一つ気付いたのは、
彼らがしょっちゅう数式で文章を止めてしまうこと。
ここで
(数式)
すると
(数式)
したがって
(数式)
おそらく、中学時代からの「証明の書き方」の名残。
各数式の後に、「…となる(結論)」なのか
「…とする(仮定あるいは定義、置き換え)」なのかが無い。
こういったメモ書き同然の果てに、
仮定と結論がごっちゃになり、
主語が不明になり、そして述語も分からなくなる
奇怪な下書きが生まれる。
ただ、これは単にトレーニング不足で
上手くアウトプットできていないだけ、
といったレベルのものでは無いように感じる。
というのも成績はそれほどだけど、
数理的な心が十分育っている学生がいるのも確かだからだ。
どこか根本的に彼らと、後者の学生(あるいは我々)との
思考回路が違ってしまっている。
さて、それはどこからなんだろうか?
小学校?中学校?高校、それとも大学で?
一方で、「定義」と「主張」が入れ替わっている文章を
とても気持ち悪がる学生がいる。
それは、いつから?
どうやってその心を育てた?
ま、年明けからそんなこんなで、
あけおめぐっつすっす*1