読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

遊び tokidoki 仕事

数学と音楽と教育と遊び

Top | おしごと | ゼミ | がくせい | すうがく | かがく | きょういく | おんがく | おきにー | Tips | Photo | イベント | ものもう | あれこれ | About

所詮ゼミ、されどゼミ

ちょいとゼミ決めの方法についての考察。
担当学年でない学年へもの申すのは紳士協定に反するようだから会議では何も言わなかったけど、
どうにも自分の中で気持ち悪さが残ることと(それは赴任当初から抱いている気持ち悪さでもあり)
当事者の学生は実際のところどう感じているのか知りたいこともあって
少々自分の考えを綴ってみることにした。
=======================================


ゼミは3年後期から始まるのだが、それに伴いこの時期にゼミ決めの話が出る。
今年も一教員に6名が配属される。
1年入学時のガイダンスで「ゼミは成績上位者から希望を聞いて決定する」旨の
アナウンスを毎年している(はずだ)。
それまで多くの年度で行われていたのは

  • 「第1希望から第n希望まで書いて成績順に希望を叶えていく」

というやり方だ。
一見、アナウンスどおりに遂行されているように見えるが、
この方法には大きな不確定要素が関わっている。


ある成績上位者Aと成績下位者Bがいて、両者ともゼミXへ配属されたいと思っている。
どうも成績をみるとAはギリギリ6名までに入れそうにないから、と別のゼミに希望を書く。
一方BはダメもとでゼミXを書く。
するとAが別ゼミを希望したことでBがゼミXへ配属される、といったことが起こりうる。
結果として下位者の希望が叶うわけだ。
さて。この結果にやり場のない怒りを感じるのは私だけだろうか?
私がAだったら腹が立ってしょうがないし、Bだったとしても気持ち悪くてしょうがない。
そして実際Aと同じ結果になり、その後の1年半やりきれない思いのまま卒業していった学生が
何人もいたことを知っている。
そんな事態を避けるべく、学生同士でドロドロとした情報収集・デマ情報合戦がこの時期行われる。


先に、感情論から書いてしまおう。
「希望方式」は
「これまで成績がいまいちだったけど、ここでラッキーチャンスあげるから、
ゼミでは仕切り直しで、みんなやる気出してね!」
つまり、成績下位者にも希望を与えるから教育的に良いのだという。
さて本当だろうか?

                                                                                      • -

1年のときに「ゼミは成績で決まるから」ときいて、
仲間がサボっているのを尻目に、とにかく真面目にコツコツと頑張る。
さぁ3年になった、成績順に決めてくれるのだよね、と思っていたら、
最後の最後で「希望順」というガラガラポン(不確定要素)。
おまけに、Aと同じ目に遭ってしまった。
正直に努力し続けたのにも関わらず、
それが自分でコントロールできない不確定要素によって報われなかった
のみならず要領の良い、あるいは心臓の強いBの希望が叶ってしまった。
どれぐらい当該学生のやる気が削がれるか、想像に難くない。

                                                                                      • -

人間社会では要領の良い者が普通にイイ目に遭っているし、
残念ながら正直に戦っている者が必ずしも報われるとは限らない。
だからこそ、せめて学校の中だけは不確定要素などを関わらせず
努力が結果に正当に反映される場であって欲しいと私は願う。
「希望方式」は当初の約束から見ると、
契約違反とまではいかないまでも何か不誠実だ、と私は感じてしまう。


もう一つ。
最終段階でガラガラポンしてしまう「希望方式」は
我々教員が出す成績の重さや妥当性を下げはしないか、ということ。
「成績で決めるって言ってるけど、どうせガラガラポンで決まるのだから、
適当にそれなりの成績とっておけばいいんじゃない?」とならないだろうか?
「成績順、といっても成績がそんなに厳密なものじゃないしね。」という議論は、
教員の出す成績の責任を放棄してはいないだろうか?
実際、成績自体不確定要素が沢山ある。
しかし、十数人の教員が独立に見た結果の総和によって順位をつけているのだから、
(また出席率や課題の提出率などといった取り組み態度も自然に加味されている)
他のいかなる評価よりも妥当なのではないだろうか?(←大数の法則
本当はゼミ決めなどとは無関係に学生が一生懸命学ぶのが理想だけど、
「ゼミ決めに使われる」ということがその科目に真面目に取り組もうとさせる
非常に強いインセンティブになっているのは事実だ。
「希望方式」はその辺りの現実を蔑ろにしているようにも思える。


そんな自分自身の思いと、過去の幾人かの学生の恨み言への反省から、
自分が世話人だった昨年度卒業生のゼミ決めでは

  • 成績順に学生を呼び希望ゼミに自分の名前を書いていく「完全成績順位方式」

を行ってみたわけだ。
「夢も希望もない/血も涙もないやり方」という批判は
当事者である学生よりもむしろ教員側からあった。
成績下位者には何の望みのないやり方だから、学生のやる気を削いでしまう、
という懸念からなのだという。果たしてそれが本当の理由だろうか?
私が思う「完全成績順位方式」の利点を挙げてみよう。

                                                                                                      • -

◆努力の結果が正当に反映できる。
成績上位者・下位者に関わらず、不確定要素が一切入らない仕組みだからだ。
このことは、全ての学生にとって重要だと思う。
初めのアナウンス通り「成績順」なので、全員が納得づくで名前が書けるのだ。
(もちろん、成績自体に不服あり、はありうるだろうけど。)


◆成績上位者はまだ埋まっていない範囲内で確実に行きたいゼミが選択でき
下位者は各ゼミに誰がいるのか分かる状態でゼミの選択ができる。

上位者は後から誰が来るのか分からないが、希望のゼミに名前が書ける。
下位者は希望のゼミには行けないかもしれないが、仲の良い仲間のいるゼミを選択できる。
つまり、自分の番になったとき、その場面で最良と思われる選択肢を
何事にも邪魔されること無く自分の意思で決定できるのだ。


◆厳格に成績順を適用することで教員の出した成績への責任と重みが増す。
つまり教員側から常に厳格に成績を適用するよ、というメッセージを送ることに他ならない。
残念なことではあるけど、将来ゼミ分けに使われるということが
学生を辛うじて勉学に引き止めておける根拠になっている現状だ。
やりすぎればアカデミック・ハラスメントになりかねないことだけど、
最後に不確定要素を紛れ込ませる不誠実さよりは、ずっと道理に合っているのではなかろうか。

                                                                                                      • -



初めて「完全成績順位方式」を行ったときは、下位学生から相当な恨み言が来るかもしれない、
とハラハラしていたのだが、実際下位学生何人かに尋ねたところ、
「初めから成績順だと言ってたのだから、何も不満はない。」との返答。
全員に聞いたわけではないから、どれぐらい本心からなのか分からないが、
「渋々」にせよ「仕方なく」にせよ不確定要素無く学生自身の意思によって選択できることが、
いらぬ不満や理不尽な思いへの解消につながってきたと私は思う。


この「完全成績順位方式」は次の年も行われた。学生からの不満の声は聞こえてこない。
だが、今年度は「希望方式」に戻すのだそうだ。
小学校の運動会で「徒競走」と銘打っておきながら、
「最後はみんなで手をつないでゴールしましょうね」とやっているようで、どうにも気持ち悪い。
歪んだ平等主義ぐらい不平等なものは無いと思うのは私だけだろうか。
それとも「そんなことは承知の上」だとするなら、
ひょっとして私の与り知らない何らかの「教員の論理/オトナの事情」が働いているのだろうか。
「『完全成績順位方式』でやる気のない学生ばかりが集まってしまったら、君やる気出るかね?」
ということだろうか?


ま、所詮ゼミだけどね。


=======================================
つい熱くなって長く書いてしまった。
自分の担当学年になった際の参考にもしたいから、
これを読んだ学生の忌憚無い意見を聞けたらいいなと思う。
よろしく。