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「数学する」ということ

今年も教育実習(隣接校実習)の授業参観に行ってきた.
赴任したての頃は,
「教育的なことなんて分からないしなぁ...」
「ご指導お願いします,なんて言われてもなぁ...」
気分だったが,数年学生を「本気(マジ)で」教えてきて
「数学をやってきた者として」の教育学部での自分の立ち位置がはっきりしてきたように思う.
何より卒論指導で学んだこと/危機感,が一番大きく作用している.


今回,2校見に行ったのだが,いずれも中1の「文字式の導入」あたり.
工夫次第では大いに楽しめる(教える側も教わる側も)ところだと思うのだが,さてさて.
教科書にある例をもとにして導入が始まる.
掲示物を貼る際,画鋲の数を節約して重ねてa枚貼るとき,必要な画鋲の数は?という話だ.

"模範的な解答"は「左から順に画鋲が2個ずつ,それがa枚分あって,最後の紙だけ2個あるから2a+2」という見方だ.

生徒に自由にやらせれば,様々な見方/数え方をするだろうし,想定外の答案も出るだろう.
実際,例えばa-1枚は2個ずつ,最後の1枚は4つ乗っているとして2(a-1)+4という答案もあった.
あるいは,そしてこれもごく自然な発想だろうと思われるのが,
画鋲の行が2行あると見て,1行にa+1個,それが2行あると見る,2(a+1)も見受けられた.
これら2つの答案はまだ文字式での分配法則を学ぶ前であるから,という理由で
この段階でのこの答案の積極的な板書は避けられるようだ.
研究授業だったりすれば当然実習生も緊張するし,あまり滅多な答案を取り上げて
生徒も自分も混乱して授業がまとまらなくなってしまう事態は避けたいのは心情だ.
だから授業自体も生徒の答案を「2a+2」へ収束させて行こうと働きかけるのは仕方ないことと思う.
(本当はむしろ様々な文字式表示を提示しておいて,「後々これらは確かに同じ式になるのだよ」と
 生徒の知的好奇心をかきたてる様な話を入れ込めると良いなと思う.
 このあたりの授業の柔軟さは現場に行って場数を踏んで,
 しかし流れ作業にしてしまわず日頃から試行錯誤を繰り返しながら授業していくうちに身についていくことだろう.)


困ったなぁ,と感じたのが授業後実習生と対面して色々話していたときのことだ.
「文字式で表すことの良さを分かろう」といった授業目標を掲げているわけだが,
果たして授業者本人はどう「良さ」を感じているのか気になったので訊いてみた.
曰く,

「文字式で表しておくと,必要なときに文字に値を代入するだけで答えが出せるところ」

ん〜,あれっ,そ,そうなの,そうなのか.えっ,他には,もう他には無いの???
算数・数学をメインに学んでいない一般の学生ならそういった認識で留まっていても仕方ないかもしれない.
が,算数・数学の学生でもこの認識だ.
そしてどうも他の学生も同じ反応らしいことが,実習を見に行った同僚の先生からの報告からも分かった.
決して特殊な事態ではないらしい.


つまりだ.大学入試までの「なんちゃって数学」=「算数ドリル」から
彼らの数理的リテラシーは一歩も進んでいないということに他ならない.
とすると,我々数学者は教育学部で彼らに何を教えてきたことになるのだろうか?
あるいは,彼ら学生は何を学んでいるのだろうか?


「異物感」--大学で学ぶ数学に対して彼ら多くの学生が抱く共通感覚だろう.
「中学/高校までの数学は好きだったけど」は学生からよく聞く台詞だ.
それ以上の数学は,現場に行ってから教えるわけでもないし役に立たないから,
「暗記科目」として試験を適当にやり過ごしさえすればいい.
そうしてテスト前に詰め込んだものは,終了と同時に直ちに脳から「排除」されていく.
刺さった棘が体内から排除されていく様子にそっくりだ.
数学教育講座」での教育は本大学の中でもかなり上手くいっている,と自負していたが
それでもこれだ.教育システムがやはり機能不全を起こしている.
学内で教員採用合格率上位に位置する数学だが,それがかえって恐ろしくも感じる.
結局多くの学生がその自覚無く「数理盲人」のまま教員就職してしまうからだ.
教育の良心に従うのなら,どうしても罪の意識を感じてしまう.
「大学で学んだ数学は一切忘れて,今日から現場の数学を学びなおしてください」
などと新人が現場教員に言われたりすることもあるらしい.
この言葉は文脈しだいで様々に捉えうるが,かつて送り出した現場教員が「数理盲人」だったから,
という可能性だけは0であって欲しい.


「じゃあ君,そんなこと言うが,何か良い提言でもあるのか」と言われよう.
「まだ,無い」としか返せないが,
しかし算数ドリルと数学との間にある「ミッシングリンク」を埋める手立てについて
何かが蓄積されてきている感覚はある.


「数理盲人」の特性の一つは「自分で数学したことがない」
あるいは早い時期に「自分で数学することを止めてしまった」点だ.
班を作って生徒同士で考えを説明しあう場面を設定している研究授業をよく目にするが,
どこか「初めに答えありき」で議論させていることが殆どだ.
子供にとって学ぶものは全てが新しい.新しいから発言が素のまま,瑞々しいまま出てくる.
しかし「いつも傍らに答えのある数学」しかやった経験の無い,
「自分で数学したことが無い」教員は,子供の「間違った」発言に反応できない.
正確に言えば,確かに結果的に間違っているのだけど
そこにある子供なりの「重要な数学的な動き」に気づけない.
「正しい答え」に導くことだけに意識がいくとき,
その子自身が育みつつある数理の芽を片っ端から摘み取ってしまうことになりかねない.
そうしたことが繰り返されれば,その子供も次第に「自分で数学すること」を止めてしまう.
こうして「数理盲人のデフレスパイラルができあがる.
まさにこのスパイラルを何とか止められないものかと,
私は近ごろ躍起になって学生を刺激しているつもりだ.
今目の前にいる学生に,如何にして「自分で数学させるか」と.


さて,冒頭の「文字式で表すことの良さ」について.
何よりそれは「量と量の関係」が明確になることではなかろうか.
紙の枚数aとそれに必要な画鋲の個数との関係が2a+2と表されること.
それは「後で自由に値が代入できる便利さ」以上のものをもたらす.
付属していた本来の意味をとりあえず取り外し,式として抽象化したとき,
代数的な操作(要するにこの場合は式変形)をすると新たな発見につながる.
例えば,その教員が行で見る,という方法を思いつかなかったとしよう.
しかし式を変形して


2a+2=2(a+1)

とやってみる.
「a+1が2つ」と見えたとき,もう一度意味を考え直したら,行ごとに数えるという見方に行き着く.
実は数理科学の場では,直感が遥かに届かない世界でもこうして式変形と意味解釈をし直すことで
新しい発見に結びつくことが多いのだ.実際,こうして人類は発展してきた.
そして大学の教育学部で学ぶ数学は「現代数学」を素材にして,
数理的な視点,「自分で数学する場」を提供しているつもりなのだ.
ただ,それが学生に伝わらない.そこが悲しい.*1

*1:しかし,現代の教育学部での数学者の存在意義について非常に面白い論考/活動があることを見つけた.これについてはまたいずれ.