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世界は実在なのか関係なのか

表題は,ケン・ウィルバーが編集したニューサイエンス論考集
「空像としての世界」に当時巻かれていた帯の文言.


フラフラしていた大学生時代にニューサイエンスにはまった.
きっかけはF.D.ピートの「シンクロニシティ―」.
現時点でのあらゆる初期値が厳密に分かれば,将来は確実に予想できる,
というニュートン運動方程式に始まる決定論的世界観に,
何とも言えない閉塞感と絶望感に打ちのめされていたときに,
その本に出会った.
その当時大流行だった,量子論を組み込んだ新しい世界観,
「人間の自由意思はそれでも存在しうるのだ」
そう高らかに謳い上げる思想に,心が大いに躍った.


あれから20年.再び大きな閉塞感に苛まれる日々となった.
この寂寥感と喪失感は何だろうか.
入学したころの学生たちは目新しさもあるからだろうが,
「学ぶ」ことに少なからず心が開かれている.
しかし学年が進むにつれ,学生らは「学び」に無関心になる.
下手をすれば「大学での学び」を敵視するようになる.
そういった輩は教育現場に行って
「大学での勉強は糞の役にも立たなかった」と嘯くのだろう.


ちょっと前の自分なら,「何をコノ!」と怒るのだろうが,
学生がそうなってしまうのも已む無し,とこの頃は思えてならない.
むしろ,やっと受験という足枷から解放され,
学びに自由が戻るはずの大学において,
学ぶことの本来的な楽しさを再認識させられずに卒業させて,
申し訳なかった,と思う.
実際,学生の「本当の意味での学び」を興し自律性を育てる,
そういった明確なベクトルを持った講義があまりに少ない,と思う.
つまらないルールだとか目先の成績を盾にとることで,
どれだけ学びの本質から彼らを遠ざけてしまっていることか,と思う.
正直なところ,学生一人一人の学びの独自性を保障しない,
「一斉授業」という形式自体に,もはや限界を感じてならない.


そんな経緯もあって,一斉授業という形が日本に導入される明治以前の
江戸時代の学びについての本に出会った.「学び」の復権―模倣と習熟 だ.
貝原益軒の思想を出発点に,現行の教育制度を見直そうという話なんだが,
まだ読んでる途中なので内容には踏み込まない.
ただ,ちょっと面白いな,と思ったのが益軒が朱子学における「理」を
どうしても認めなかった,というくだりだ.
朱子学は,あらゆるものは「気」(「気功」の気も同じ思想)を持ち,
気は「理」と呼ばれる秩序法則に従っている,といった思想哲学らしい.
この辺から自分の曲解が入るので気を付けてほしいのだが,
朱子学において「気」は形而下のもので,「理」は形而上のもの.
それは「実存」と「関係」と読み替えられるか,と思っている.
そして益軒は「関係」が実体を持つことを受け入れられなかった,
ということなのかな,と.


で,初めの「空像としての世界」の論考集では,
「実在」と「関係」にまつわる様々な考察が行われていたと記憶している.
つまり,世界の本質は「実在」なのか,
それともそれらの間の「関係」なのか,と.
「関係」が実体を持つことを受け入れられない論者がいれば,
ハイゼンベルグが言ったように,宇宙の究極の存在は一握りの対称性に集約される,
といった,「関係」こそが実体だと論じたものがあった.


このところ,和声理論をトポスの言葉で分析し再構成する数理音楽の論文を
色々と読み漁っているところなのだが,それに並行して圏論の再勉強をしている.
そして圏論は,まさにこの「実在」から「関係」へ視点を移してみよう,
という試みにほかならない.
つまり「実在」としての「点」が実体として先にあるのでなく,
点と点を結ぶ「射」という「関係」こそが実体だとして,数学を見直すという方法論だ.
(いや,これは数学理論なのだから,もちろんそんな思考のバイアスは元から無いのだけど)


さて.ここ1年ほどつきまとっている寂寥感と喪失感も,
「実在」から「関係」へパラダイムシフトすることで,
あるいは違って見えるようになるんだろうか.


空像としての世界―ホログラフィをパラダイムとして

空像としての世界―ホログラフィをパラダイムとして

シンクロニシティ

シンクロニシティ

「学び」の復権――模倣と習熟 (岩波現代文庫)

「学び」の復権――模倣と習熟 (岩波現代文庫)