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The genocide of Learning(1)

すべて物事を局限するのが幸福になるゆえんである.
            「訓話と金言」ショーペンハウアー

この言葉は,「けさのことば」として新聞に載っていたものだ.
出会ったのは高校1年の頃だろうか.
未だにこの言葉は人生の真実を言い当てていると折に触れ思う.
人が幸福を感じるには,多かれ少なかれ「その外の世界」に目を瞑らねばならない.
しかし,人生の潮の流れが変わるとき,好む好まざるに関わらず
「外の世界」にふと気付いてしまうことがある.


学生の「学び」が,特にこの3,4年のうちに,急速に頼りないものに変化してきている.
世間一般にその傾向があるのか,当講座特有の現象なのかは分からない.
講義中の学生はとにかく「静か」だ.
これは単に物理的な意味で,というよりは知的な意味で,だ.
その傾向は学年が上がるにしたがって顕著になっていく.
「もう,お腹いっぱい,結構です」という雰囲気を出す学生はもちろん以前から居たものの,
それでも趣向を変えた石つぶてを講義中に投げ入れれば,
それなりのさざ波が教室に生まれ,波紋もそこそこの時間,継続したものだった.
が,この頃は本当に「なしのつぶて」になることが多い.
知的な反応が起こらないのだ.
(しかしそのおかげで,次回こそあるいは来年こそ「反応」を引き出してやろう,
と,教材が拡充されていくわけなのだが.)


数年前までは,知的な意味で(も)元気な学生が比較的いた.
それは知的な「生意気さ」「しなやかさ」「頑健さ」を持った学生だ.
少々分からないところがあっても,そこで興味や思考を止めることなく,
それはとりあえず置いといて大筋で理解しようとしたり,
自分なりの方法で再構成して理解していたりしたものだった.
そしてそこには,「テストで点を取る為」以上の動機が彼らにあるように感じられた.
単に「教育されている」のでなく「学ぶ」姿がそこにあったように思う.
レールが途切れていても,試行錯誤しながらそこを緩やかに乗り越えていく,
そんな力強さがあったように思う.
もっともだからこそ荒くれ者も多かったわけだが.


「教育に飼い慣らされている」-- それがここ数年の学生に強く感じる点だ.
知的な冒険をするよりも,教育システムに,
あるいは各講義システムに如何にうまく合わせるか,
に学生の多くのエネルギーが使われてしまっている.
そしてここ数年,否応なくそのシステムに合わせざるを得ない状況に
学生が追い込まれていることは,実に不幸なことだ.
受験という外的な学習動機からやっと解放され,
自由な「学び」に本来なら集中できる大学において*1
再び教育サイドが,学生の「学び」から
deCharmsが言うところの「自己原因性」を奪ってしまっている.


しかし,どうやらこの構図はこの小さな講座に限らず,
実は日本に近代的な教育システムが導入されて以来,
ずっと起こってきたことだ,と言えるだろう.
このシリーズの第2回でまず引用しようと思っている,PISA2003のある調査データが,
如実にこのことを物語っている,と感じるからだ.


そういえば今の3年が入学したての頃,ガイダンスで
「○○先生が言ってた『から』」「教科書に書いてあった『から』」で終わるような勉強でなく,
「○○先生が言ってた『けど』」「教科書に書いてあった『けど』」で始まる勉強をして欲しい,
といった言葉で,学生のこの先の学びを自分なりに鼓舞したつもりだったけど,
きっと誰も憶えてないだろうな...

人を伸ばす力―内発と自律のすすめ

人を伸ばす力―内発と自律のすすめ

*1:いや,しかし教育大学の宿命なのか,免許に必要な単位数が指定されているため,
既に大学らしい自由な学びは物理的に制限されてしまっている訳なんだが.