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The genocide of Learning(2)

いまさら感もあるのだが,まず初めにPISA2003のある調査結果を見てもらおう.

出典:学習意欲向上のための総合的戦略に関する研究
−「活用型・探求型の教育」の教材開発を通して−
 下田 好行(国立教育政策研究所 総括研究官)
  p3 の図をEXCELで打ち直した.

←クリックでpdf版.
これはおそらく,PISA2003の調査
STUDENT QUESTIONNAIREにおける,
Section E の Q30 への回答からの抜粋であろう.
さらに同じページ内のStudent Compendiumを覗いてみる.
p.490にはQ34:
I think how the Mathematics I have learnt can be used in everyday life.
(学んだ数学を日常生活にどのように使えるか考える)
という質問に対する回答があり,
日本では87%の子どもたちが「考えたりしない」と答えている.
その次に数値の高かったのがミャンマーで71%だということを踏まえると,
やはり日本のこの数値は異常だ.
物理的な教育環境が整っているはずの国である,にも関わらず.
また日本での調査児童・生徒数も124万人とあるので,これは確かな数値であろう.


いずれにしても数学学習に対するモチベーションは
OECD中最下位層に日本が位置することは間違いない.
その一方で,「学力調査」では日本は上位層にあり,
多少の順位変動による社会的関心からか,こちらの事実はよく報道されている.
つまりだ.

  • 学力調査では日本はOECDの中で上位層.
  • 一方,数学学習のモチベーションはOECDの中で最下位層.

まさにこの相反する実体こそが,明治以来,世界各国から掻い摘んで,
形だけ真似て「教育を輸入/移植」してきた,
この国の教育システムから必然的に導かれる結果なのだろうと思う.
またこれらの相反する数値を見るにつけ,
日本人とは何と我慢強く,そして奇特な人種なのだろうかと思う.
どうして児童・生徒は本当の意味で何の意義も見い出せていない「数学」を
12年間も大人しく席に座って聞いていられるのだろうか.
国が国なら暴動が起こってもおかしくないほどの意識と実態の乖離度ではなかろうか.
いやいや,こうして長年大人しく座らさせられてきたあかつきに,
2013/05/22のブログでも述べたような,
理科系科目被害者意識が日本の大人社会全体に蔓延するのであろう.


そういった視点で見ると,この頃面白いと感じるのが,
日本人は理屈や数値よりも形容詞を好む,という傾向だ.
前段の議論を踏まえれば当然といえば当然なんだが,
例えばエアコン選びの話で「2010年基準100%達成」「2010年基準115%達成」と書かれるより*1
「エコ度:小」「エコ度:大」と書かれるほうが分かるらしい.
いや,なぜか数値で書かれると比較できなくなるらしい.
ならば「2010年基準105%達成」でも「エコ度:大」と書かれていれば
同じ基準で商品を選ぶのだろうか.
こうしてわざわざ劣化した情報を大人たちはこぞって信用する.
あるいは報道番組で科学技術者がある事故について一生懸命理屈や仕組みを説明していても
司会者はあまり聞いておらず,体の良いところで話を区切らせておいて
「それで先生,どう思われますか?」とくる.
先生がどう思おうと,現実は変わらない.
むしろどういう理屈でそれが起こったのかさらに詳しく訊くほうが,
視聴者の為になるはず.


少々,話がずれてきてしまった.
今回は数理科学に対する学びのモチベーションが異常に低いまま,
長い年月児童生徒は教育を受け続けている,という事態が明確に分かる資料を紹介した.
この資料は数学に関わるものだったのだが,
実はこの事態は数学だけに限らないであろうと自分は思っている.
つまりもはや学習全体において,得点を取る,単位を取る,
そして入試を突破するという外発的誘因以外,
児童生徒は何も見いだせなくなってはいないか,ということだ.
いや,正確に言えば,児童生徒がそうならざるを得ない状況を,
この社会はずっと維持してきたのではないのか,ということだ.


さて,そろそろ長くなってきたので,今回はこの辺で打ち切りたい.
デシ&フラスト「人を伸ばす力―内発と自律のすすめ」からの引用を掲げて閉じよう.

生き生きとした生活を不満足な生活に変える社会的な文脈には,
大きく分けて二つのタイプがある.
第一の,明白でわかりやすいタイプは,ブルガリア*2について述べたタイプである.
一貫性がまったくなく混沌としていて,
内発的または外発的な成果を達成するために
何を期待されているのか,どのようにしたら有能に行動できるのかが
はっきりわからないような社会的文脈は,人間の精神を全般的に害する.
そこでは,人々は何ごとにも動機づけられない.
無気力状態はこのようにして生み出されると,われわれは考えている.


第二の,それほど明白でないタイプは,この本で主に焦点を合わせてきたタイプである.
すなわち,

 ある特定の方法で行動したり,考えたり,感じたりするよう人々に要求し,
  圧力をかけ,強制し,そしてそそのかす統制的環境である.
  これらは人間のロボット化を推進する環境である.
  行動を手段としてのみ考え,唯々諾々と要求に従う人は,
  言ってみれば半分死んでいるのであり,
  ときには,統制に反抗することさえ教えてあげないといけなくなる.

(E・L・デシ & R・フラスト「人を伸ばす力―内発と自律のすすめ」
 第6章「発達の内なる力」p112)

人を伸ばす力―内発と自律のすすめ

人を伸ばす力―内発と自律のすすめ

*1:もちろんこの数値自体,どれくらいの信頼度のものなのか,等々問い詰めればきりがないのだが.

*2:本書が書かれた当時はブルガリア社会主義国であった.