副免実習の研究授業を今年も参観.中学1年の文字式の導入である.
久しぶりにこちらが元気になる1コマを見られたので,報告したくなった.
何より子どもたちが明るい.
そして授業の間,子どもたちの誰一人としてつまらなそうな顔をしていない.
各自が探究活動と「学び合い」にごく自然に取り組んでいた.
今の時代,半ば奇跡のようなこの光景,
おそらく学校全体,いや地域全体で子供を育てようとする取り組みがあってのことだろう.
面白かったのは,生徒の机の配置がデフォルトで教卓の方を向いていないこと.
丁度クラス全体が円卓会議をしているような配置だ.
教師はあくまで進行役とサポート役であって,
子ども同士による学び合いを起こしやすくする仕組みのようだった.
実際,この形なら他の子がどんな反応をしているのか,
生徒同士でいつも確認しあえることだろう.
「子どもが学びの主体である」という標語をまさに形でもって示している.
研究授業本編は,できるだけ多様な考え方を生徒に導いてもらったり,
(しかし,折角出てきたアイディアたちを文字式で改めて捉え直し,
けれどそれは皆同値なんだ,となるところまでは時間が足りなかった.)
一人の生徒の説明を,改めて別の生徒にさせて理解を深めたり等々,
学校独自の様々な工夫が垣間見えた.
そうそう,途中かけ算の順序に拘った生徒の指摘があった.
(それはかの有名な「小学校ではかけ算が非可換」のギロンだ.)
さてそれにどう対応するのか観ものだったが,
そのあたりはまだ実習生,当たり障りない感じで進めたのだが,
掘り下げると面白かっただろう.
さて,そんな生き生きと学ぶ子どもたちを見ながら,何を私が感じたのか,
ここをよく見ていただいている方はお察しのことだろう.
「あぁ,かつてのこの子たちはどこへ逝ってしまうのだろう」
そう,講義に全く意欲を示さない学生たちのことだ.
しかし彼らを批判するつもりは全くない.むしろ真逆だ.
これは数年前から研究授業に行く度に感じてきたことなのだが,
小中学校では,一人ひとりの学びを実に大切に指導している.
(因みに自分は小牧・春日井を中心に参観してきた.)
つまり,小中学校では「教育」から「学び」へと仕組みを着実に大転換させている.
振り返って大学における講義は,あまりに旧態依然ではなかろうか,と.
(まぁこうして,自分の講義のマズさを棚に上げているわけだ.)
小中学生と大学生を並べて考えるのが抑々野暮なのだが,
それでも「書き写しマシーン」と学生自らに言わせてしまうのは,
将来教壇に立つ教師を育成する教育学部の姿では無いはずだ.
「教育学部だから算数・数学の教え方を教えてくれると思ったのに...」
は度々学生から聞く言葉だ.
ニーズとサプライのミスマッチ,という片付け方もできるし,
実際これは大きな問題のはずだ.
学ぶ動機付けが十分になされないままでは,
本音のところで教授する側と学ぶ側で永遠に平行線となる.
が,一方で「数学」という言語/世界の捉え方/道具箱に対する自然な興味を
学生一人ひとり本来は持っていたはずだとも思う.
でなければ,算数/数学を教科として選ばないだろう.*1
だからあの中学生らのように,純粋に内発的な興味を大学において復活させる,
少なくともそんな仕組みや火種ぐらいは作らないと,
頑張っている小中学校の先生たちに申し訳ない,と思った次第.
う〜ん,色々やってみてるのだけど,
なかなか彼らに届かないなぁ...
一人ひとり,確かに輝けるはずなんだけどね.
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*1:消去法で数学になった,という学生もいる.けど,それは他より数学ができたからで,
できたということは数学という方法論に馴染みやすかったからなのでは?