せっかくの晴れだし,文化の日だし,朝一でジャコメッティ展へ.
ジャコメッティ.枝の様にひょろっとした人物彫刻や
肉を削ぎ落としたような犬の彫刻なんかが美術の教科書にも載っているレベル.
若いころはキュビズムに基く作品も作っていたようだ.
彫刻でキュビズムって,改めて考えると絵画から逆輸入したような感じだ.
というのも彫刻はもともと三次元なのだから.
抽象化によってモノの本質を抉り出そうとする初期の作品群.
中でも「みつめる頭部」(1929)はシュールレアリズムにいたころの作品だそうだが,
思わず引き込まれてしまった.
極度の抽象化によって本質を捕まえようとする哲学的な行為が,
(それは数学をやっている者にとって日常的な行為でもある)
静かにこの黒い塊で今も進行している,見る人の頭を通して.
Paul Kleeや元永定正の作品にも似た,どこかユーモラスですらあるこの彫刻に
暫しの時間浸った.
ところでこういう歴史的な人の作品展は撮影不可だろうと思ってたら,
一室だけ撮影可となっていた.おぉ,粋な計らいだ.
というわけで早速撮影開始.
大きな女性立像II(1960).
3メートル近くある像.
美術館では上のほうに顔があったのであまり見えなかったが写真を拡大してこうしてみると,
デッサンのように幾重もの描き直しの線から次第に存在が浮かび上がってくるのと同じことを
彫刻の上で行っていたのだというのがよく分かる.
大きな頭部(1960).
彫刻のアクションペインティング.
歩く男I(1960).
地面からひょろりと生えたような,儚い存在なのだろうか,人は.
どういうわけだかPascalのパンセの一節がふと浮かぶ.
人間はひとくきの葦にすぎない.自然の中で 最も弱いものである.
だが,それは考える葦である.
Man is but a reed, the weakest in nature, but he is a thinking reed.
(パスカル「パンセ」)
おお,そしてそして!犬!美術の教科書に載ってる「犬」!!
犬(1951)
調べると人体にこだわったジャコメッティ,動物は息抜きで作っていたそうだ.
けれどなかなかどうして,すごい存在感なんだ.
あれ知らなかった,「猫」もあるんだ!
猫(1951)
やせ細って腹ペコで土砂降りの雨の中をとぼとぼと歩いてるようにも見える「犬」にたいして,
「猫」はなんだか颯爽と歩いている.この違いは何?
あっというまに90分.ついでに高橋節郎館へも.
豊田市美術館に来るとほぼ必ず寄るのだけど,今回初めて見る作品がいくつかあった.
土偶,自然,星,月,夜,そこにJoan Miro的な要素を加えた漆器作品群.
いつも暗めの部屋で人もあまり来ない静かな空間.
時間のある時はつい腰かけてボーっと過ごすことの多い記念館だ.
漆黒と鮮やかな金箔に彩られた星々なんか見ていると,
プラネタリウムを見ているような感覚になって心地良い.
公益財団法人 高橋記念美術文化振興財団
さて,引き上げよう.