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数学への触媒としての果てしない活動

すうがく ゼミ おしごと

既に書き綴っていることだが、今年の卒論指導はホントにピンチ。
そんな拘らず、できるところまで適当にやって後はナンチャッテ卒論でいいじゃないか、
とはいかない性分なのでしょうがない。
指導した学生の卒論は、やはり自分にとっても一つの作品なのだ。
何より、明らかに手を抜いたなと分かるような、
あんまりにも恥ずかしい内容・汚い記述を公開するなどということは絶対にイヤだ。
そういう訳で、提出期限ギリギリまできっと添削で闘うことになる。


さっき、学生の卒論を「作品」といったが、それは以下のような意味で、だ。

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教育学部にいる数学教育でない自分のような数学内容学の教員が、
教育現場に向かう学生たちに、あるいはその学生たちを通じて教育現場に
どんな影響を与えたいと思っているか(あるいは想っているか)。


数学は決して「(計算)問題を解く作業」ではない。
人類の偉大な発見であり遺産なのだ。
この思考態度/方法がどれほど我々の生活を豊かにし、進歩させてきたか。
数理的な思考方法がどんなに思考を節約し簡潔にしてくれるか。
その結果我々をどれほど遠くまで運んできてくれたか。
これらのことを頭ではなく、心で深く体験して欲しい、実感して欲しい。
その意味で卒論指導は、またとないチャンスなのである。


しかしその指導で手取り足取りやってしまったのでは、
何もしなかったに等しくなる。
彼ら自身で問題を発見し、あれこれ試行錯誤と泥臭い計算を進め、
私と議論し考え、そしてよりその問題の本質へと迫っていく。
そうして彼らを美しい直観と論理の大平原へとソクラテス的に導いていきたい。
私自身は彼らを本当の数学、とまではいかないまでも、
その片鱗へと結びつける触媒でありたい、そう願っている。
だから学生の卒論は、私が触媒として作用した結果でもあり、つまり「作品」なのだ。

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と、桃源郷のような話をしたが、
実際この触媒作用が上手く働いて何がしかの目的が達成できたかな
と感じられる卒論は毎年1、2編あるかないかだ。
多くは時間切れで、「ああ辿り着けなかったなぁ」と感じるものになる。
あるいは学生自身がそれ以上の探求を諦めるか、
私自身が触媒であることを諦めて手取り足取りやってしまう、
いわゆる「お客さん卒論」になる。
まぁ、そんなもんだ。
大ピンチの今年、どこまでお客さん卒論を減らせるか...


そんなこんなで、息苦しく寝苦しい毎日だ。


でもちゃっかり毎朝のピアノの時間、
ショパンの「大洋のエチュード」と「嬰ハ短調ノクターン」を練習する時間は
確保してるのだけどね。