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数学と音楽と教育と遊び

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研究授業に顔を出す

さて、3年の4週間教育実習も大詰め。
今回も2校担当だったので昨日今日と研究授業に参加。
地元である春日井近辺をいつも選ぶのだが、今回数学教員への配属が皆無。
で、まぁ成り行き上、扶桑中と豊山中(←イチローの出身校だって)へ。
しかしなんというか、地域・学校によって雰囲気から教育方針まで
こんなにも違うものかと今回改めて感じながら授業を観察。
扶桑中は地方の学校ということもあってか、学校が地域にしっかり組み込まれていた。
地域ぐるみで子供を、ひいては学校を支え、
学校も地域活動に日常生活の一つとして自然に参加している感じだった。
学校全体も一つの家族のようで実習生も大変温かく指導していただいたようだ。
さて研究授業なんだが、グループ活動と生徒発表が中心の
教師があまり前でしゃべらない、不思議な授業だった。
この種の授業は、教師の経験値が相当高くないと安定した効果を上げるのは難しく、
相手にする生徒との関係に依存する浮き沈みが激しいものになるだろう。
一方、豊山中は街中によくあるタイプの学校だ。
実習生も教わることをしっかり教わっていたようだ。
何にしても元気な子供たちと元気な実習生の取り合わせの授業で、
十分に現場でやっていけそうな感じ。
あ、もちろん、教科指導的な深まりはもっともっと必要だけどね。


で、観察後コメントを実習生にするのだけど、
教育学ではない数学そのものをやっている人間としてコメントしている。
そこでついつい出てしまうのは、
「数学をするこころ」を持って現場に向かって欲しいという願い。
「教育大学だから教え方(ノウハウ)を教えてくれるものだと思っていた。」
「こんなに数学ばかりやるとは思わなかった。」なんて声を学生からよく聞くけど、
教える本人が「数学すること」あるいは「学問すること」を実感していないのに、
どうして教えられるのか不思議でならない。*1
で、「数学する」ってどういうこと、ってことをちょっとでも分かってもらう、
おそらくその一点の為だけに我々教員が日々教えているつもりなんだけど、なかなかね。


ま、何にしてもお疲れやま〜。

*1:しかし、「むかしむかしあるところに...」のように、
話す本人があまり分かっていなくても伝えることはできるんだよね。
そういう立場なら、教師の役割というものは
お話だけ伝えてあとは子供の自由な心の動きをできるだけ邪魔しないこと、に尽きるのかな。
つまり、そのお話の真意を読み解けるかどうかは、その子に任すということだ。
おや、こう書いてくるとあれこれ手を加えてこねくり回して本質が分からなくなっている今の教育より
そのほうがよほど健全な気がする。
学問って本来こうだよね。じゃぁ、教育は...